祖父の戦争体験
僕の祖父は1917年に宮城県で生まれ、2007年に亡くなりました。
家業であった農業の傍ら、日本有数の鉛生産を誇った細倉鉱山で発破技士として働き、日中戦争(支那事変)が勃発すると大日本帝国陸軍に招集されました。
第二師団歩兵第四連隊に所属し、仙台市榴ヶ岡で訓練を終えた後、中国戦線で戦闘中、左足に貫通銃創を負い帰還。療養後、再び招集され南方戦線へ送られ、Saipan、Indonesia、New Guinea、Guadalcanal、Philippines、Malay半島等を転戦し、Cambodiaで終戦を迎え幸運にも復員できました。
僕は幼い頃に祖父に育てられたので、祖父から従軍時の体験談をたくさん聞かされ育ちました。
その多くは、合理的思考をやめ精神論が罷り通る陸軍の体質、上官による理不尽な虐めと暴力、情報収集と補給を疎かにした無謀な作戦、戦死者より病死者と餓死者が多いという戦争以前の問題等々、悲惨で目も当てられないような内容ばかりでした。
今でもよく思い出すのが、戦死した日本兵の遺骨を本土へ送った時の話です。
南方戦線で犠牲となった友軍の遺骨を回収する際、敵の砲弾により遺体が木っ端みじんとなり、中には砲撃による損傷があまりに凄まじく、遺体の身元が判別せぬどころか、遺骨すら残らない戦場もあったそうです。
遺族にせめて遺骨だけでも返してあげたいと欲した日本軍と祖父たちは、珊瑚礁から珊瑚をもぎ取り、それを焼いて遺骨として骨壺へ入れ、本土へ送ったというものでした。
激戦地から帰還した日本軍兵士達が語った有名な言葉のひとつに「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」というものがありますが、祖父の体験した出来事は、まさにその言葉を裏付けるものでした。
祖父が従軍した中で最も過酷な戦場のひとつが、Solomon諸島のGuadalcanal島(通称=餓島)だったそうです。
Guadalcanal島は日本から6,000kmも離れた、南太平洋のSolomon諸島最大の島であり、大東亜戦争の激戦地の一つです。
戦略上重要なこの島をめぐり、日米両軍による激しい死闘が繰り返され、展開した日本軍部隊は補給を絶たれ、多数の餓死者を出したことから餓島と呼ばれました。
開戦以来、連戦連勝で破竹の勢いだった日本軍が、Midway海戦の敗戦と共に、攻勢から守勢に立つ転換点となった重要な戦いです。そして、日本軍と日本人が抱える弱点を露呈した戦いであったように思えます。
餓島の奪還作戦に投入された第2師団のうち、祖父の部隊は幸運にも生還することが出来ましたが、祖父と同じ地元から出征した仲間で生還できなかった戦友も多数いらっしゃいます。
慰霊の旅を計画
祖父が生前の頃より、祖父の大東亜戦争時の足跡を辿り、遥か異国の地で国の為に戦い殉じられた諸精霊を追悼する慰霊の旅をしたいと考えていましたが、思うにまかせず月日ばかりが過ぎてしまいました。
幸い豪州に赴任したことで、日本から訪問するよりはるかに楽な行程で戦跡を訪問できることから、帰国間際になって訪問したいという思いが再び湧き起こりました。
同僚が前年にRabaulへ行っていたことも、僕の背中を押してくれました。
日本に帰国したら、南太平洋の国々を訪問する機会に恵まれることは滅多に無いだろうと思い、これが最後の機会とばかりに、無理な行程を組んで決行することに決めました。
帰国間際の何かと忙しない時期で、休日と振替休日を活用しても許される日数は4日間だけです。
限られた日数の中で、どうしても訪問したかったのが、Solomon諸島のGuadalcanal島と、Papua New GuineaのNew Britain島にあった旧日本軍の一大拠点Rabaulです。
2つの目的地は有名な観光地ではないので、航空機の運航が限られています。
航空便の情報を集め、豪州から2島を効率的に訪問できる行程を練ったところ、次の計画となりました。
Sydney → Brisbane → Honiara → Port Moresby → Hoskins → Rabaul → Port Moresby → Cairns → Brisbane → Sydney
4日間で9回ものflightですが、これが時間と金額の両面で最善の行程でした。
ただし、この計画はどの便も遅延や欠航がないという前提です。
路線によっては週に2便しか飛ばない定期便などがあり、もし故障や天候により遅延や欠航が発生し、計画が少しでも狂うと全体に影響を及ぼしてしまいます。最悪の影響が出る場合、日本への帰国便に間に合わない可能性があり、実行すべきか大いに迷いました。
さらに心配なのは病気と治安の問題です。両国とも麻剌利亜(malaria)危険地帯であり、vaccineが未だ開発されていません。
予防薬がありますが副作用もあり高価です。
例え麻剌利亜に感染しても、実質的に対処療法しかないこと、発症するのは日本に帰国した後になるので、十分な医療を受けられると覚悟を決めました。
それから、治安について、Guadalcanal島とNew Britain島は比較的安全のようですが、Papua New Guineaは世界で最も危険な国のひとつです。
経由する同国の首都Port Moresbyは、強盗、強姦、殺人が日常茶飯事という、世界の首都の中で治安が最悪という評価が長年にわたり定着していた都市で、滞在しないよう注意が呼びかけられています。
そんな場所には足を運びたくないのですが、空港で乗り換えだけだから大丈夫だろうと高を括り、万難を排して行こうと決めました。
大まかな計画を立て、航空券等をさっそく手配します。
宿は旅行会社のweb siteで予約し、航空券は取扱い旅行会社の信用度が低いので運行会社のweb siteで予約しました。
Tour guideは現地の旅行会社から見積もりをもらい、英語が話せるguideを手配しました。
当初計画
1日目 Sydney → Brisbane → Honiara、Guadalcanal島慰霊、Honiara宿泊
2日目 Honiara → Port Moresby → Hoskins → Rabaul、Rabaul宿泊
3日目 Rabaul慰霊、Rabaul宿泊
4日目 Rabaul → Port Moresby → Cairns → Brisbane → Sydney
あとは仕事の残務整理と引っ越しなど帰国の作業をこなし、体調を整えて旅立つだけです。
計画は完璧でしたが、道中いろんな問題が発生し、これまでの海外旅行で最も冷や汗をかく旅となりました。
でも、いろんな問題に直面し、それを解決できたことで、結果的に経験値を上げることが出来ました。