75年前の今日、ちょうど今頃の時間帯、1942年5月31日夜半から6月1日の未明にかけて、大日本帝国海軍の特殊潜航艇3艇が、Sydney湾内のGarden Island海軍基地を攻撃しました。
特殊潜航艇を搭載した伊22ほか5隻の潜水艦から発進した特殊潜航艇が、海軍基地に停泊中の連合軍艦船に魚雷を発射し、宿泊艦1隻を沈没させ、豪州兵と英国兵21人が犠牲になりました。
太平洋戦争時、日本軍が豪州北部の都市Darwinを大規模爆撃したことはよく知られていますが、Sydney湾攻撃についてはあまり知られていません。
この攻撃による被害は軽微なものでしたが、豪州人と豪州軍が受けた衝撃は計り知れないものだったと思います。攻撃した特殊潜航艇は母艦に帰投する予定だったものの、1艇は撃沈され、2艇は自爆し、3艇とも帰還できず、乗組員6人全員が死亡しました。
僕が興味を持ったのは、日本軍が本土から8,000kmも離れた補給もままならない遠隔地まで攻め込んだことや、戦死した兵士が軍神として祀られたことではなく、豪州軍の対応にあります。
豪州人にとって、戦死した日本軍兵士は、豪州を恐怖のどん底に陥れた悪魔のような忌まわしい存在だったに違いありません。それにも関わらず、当時の豪海軍司令官Gould海軍少将は、戦死した敵軍兵士の勇気に敬意を表し、海軍葬という異例とも言える最高礼をもって弔いました。同少将は、同胞を殺害した敵国軍人を手厚く葬ることに反対する一部の声に、「このような鋼鉄の棺桶で出撃するためには、最高度の勇気が必要であるに違いない。彼たちは最高の愛国者であった。我々のうちの幾人が、彼たちが払った犠牲の千分の一のそれを払う覚悟をしているだろうか」と、毅然として演説したそうです。日本軍兵士の遺骨は日本に返還され、遺族のもとへ届けられました。
同少将の振る舞いは、豪州軍兵士を鼓舞するためという目的はあったものの、困難な任務にあたった日本軍人の勇気を心から称え賞賛しています。それは、敵味方を越えて武勇を称える英国(豪州)軍人精神の現れで、彼の国では騎士道として、我が国では武士道として共通する価値観のように思います。

Sydney湾攻撃には後日譚があります。
終戦から20年を経た昭和40年、豪州連邦戦争記念館館長がSydney湾攻撃で戦死した日本軍一兵士の母を訪ねました。彼は彼女に「豪州全国民がご子息の勇気を尊敬している」という声を届け、豪州訪問を呼びかけました。3年後、83歳になっていた彼女は豪州を訪れ、Sydney湾を見渡せる場所で、戦死した息子を「よくやった」と褒めました。彼女の滞在中、豪州の人々は「日本の母」と親しみを込めて呼び、後年、彼女の葬儀には豪州政府から弔電が送られたそうです。
かつて大日本帝国海軍の兵士が豪州人から尊敬された事実があり、捕虜虐待などの問題もありましたが、豪州人の多くは戦争の遺恨を残さず日本にとても友好的です。
第二次世界大戦で本来戦う必要がなかった日豪が、米国(というより大統領個人)の思惑により戦争したことはとても不幸な出来事でしたが、日本と豪州の現在の強い結びつきが、多数の犠牲者と過去の出来事を互いに許しあった寛容な人々の努力の上にあることを改めて思いました。
日本は、自他共に当事者ではない孫子の世代にまで恨みを向け続けるような国は相手にせず、豪州など民主主義と基本的な価値観を共有できる国を、将来も大切にしていかなければならないと思います。